2日目最終日は、台風の影響を考慮し、急きょ予定を変更し、午前中に手賀沼遊覧ということになりました。2組に分かれ、それぞれ手賀沼から白樺派文人が暮らした家々を思い浮かべながらの遊覧は、趣深いものがありました。
さてアビスタに戻って講義です。
最初の講義は、前白樺文学館学芸員の竹下賢治講師による「柳宗悦の父・楢悦―殖産興業がつなぐ父と兄、そして叔父―」です。
柳一族、そして嘉納治五郎は何故我孫子にゆかりがあるのだろうか。竹下講師は「殖産興業」という視点から、宗悦の父海軍少将、柳楢悦(ならよし)が手賀沼を訪れた1889(明治22)年から話をはじめました。
海の伊能忠敬と評された楢悦の活動、宗悦の兄悦多(よしさわ)と嘉納治五郎との関わりなど、多岐にわたるお話をして頂きました。
印象的だったのは、『柳楢悦小伝』の解釈です。
第一に彼の経歴は学者としての経歴なり。
第二に其の適応者なり。学術の実践、之が彼の生涯を一貫せる事業なり。
第三に彼が趣味の人なるを忘る能はず。
楢悦の活動が、彼の子孫たちが成人後の職業として選んだ道が楢悦の分身とも解釈できるほどに同じ道を歩んでいるという点です。
宗悦は宗教哲学者としての一面を持ち、宗悦の子供たちは、美術史家、園芸家など、その多彩ぶりは、まさに楢悦の分身といえるでしょう。
竹下講師は最後に以下の言葉で講演を終えました。
「旺盛なる好奇心」
あらゆる物事の原点こそ好奇心の賜物といえるのではないでしょうか。大変意義深い講義でした。
さて最後の講義は、教育委員会文化・スポーツ課の辻史郎講師による「我孫子の地誌~柳宗悦の「我孫子から(通信第二)」から読み解く~」です。
辻講師が着目したのは、「我孫子から(通信第二)」に宗悦が綴った次の文章です。
湖畔一帯に無数の古墳がある事を思へば此処は歴史的にも古い土地にちがいない。「我孫子」と云う名称にも神代の香りがする、その起源に就ては土地の人も詳(つまびらか)でない様だ。東北に眞近く筑波を見る処からすれば、あの筑波に関連する趣味多い神話は、尚此土地にも及んでゐる様に思ふ。古城趾と云われてゐるものも非常に多い、然し之は鴻之台が戦場として記憶せられる時代と同一の史蹟と見做していい。古墳から出る石器、土器を別にしても此土地の遼遠な昔を語るものは、今土塊から掘り出される化石だらう、化石としてはもとより近代層のものである事は争はれないが、地質学上からも、此土地は愛顧を受けるに足りると思ふ
辻講師は市内の遺跡の写真、地図を紹介しながらわかりやすく解説してくださいました。
興味深かったのは以下の3点です。
○柳の文章は実際に現地を見なくては書けないものであり、またその分析は極めて的確である。
○当時の最新の歴史学、人類学、地質学など研究成果を認識し、東京帝国大学卒業者としての知的好奇心による興味関心度の高さ
○大正時代という知的文化空間の有様⇒古典的知識と 教養を有した若いインテリが、西欧からの新しい情報、学問を吸収し、新たな価値を探求、創造している
白樺派、民藝運動の人々が若き青春を過ごした大正という時代、文化空間について改めて考えさせられるとともに大変示唆にとんだ講義でした。
大正時代は1912年から1926年まで、15年ほどの短い時代ではありますが、政治、文化、経済等々さまざまな分野で注目すべききっかけが生まれている時代といえます。
大正100年を迎え、改めて大正という時代を知ってもらえればと思います。
講義終了後は閉校式と記念撮影。
「出会い」と「絆」が「我孫子」の地でこんなにもたくさん育まれました。
最後は白樺文学館、杉村楚人冠記念館、三樹荘などを見学しました。
柳宗悦の軌跡が、こんなにも多くの「出会い」と「絆」を育み、今回の民藝夏期学校開催へとつながったといえます。当初台風の影響も心配されましたが、「奇跡」的に天気もよくなり、無事に終えることができました。
白樺文学館では、9月28日まで「柳宗悦展―出会いと絆の地、我孫子―」を開催しています。是非多くの方に出会いと絆を、この我孫子で育んでいただければと思います。
ご参加頂いた方々、そして運営に携わった方々すべての方に改めて御礼申し上げます。